凡人にとっての解釈とは、、
まず大前提として、私達底辺のいるこの場所、柔らかく温かい心地良い場所では解釈思考そのものが「虚空」と消える為、この記事自体に何ら意味はありません。
なのでこの記事、この時点で理解が出来ている人のみ下記内容を読んで下さい。
中にいるだけでは解釈に違いが出ないとは?
これは、日本にいるから分からなかった、世界に出て目から鱗でした、などの学業的表現とは違う。
一つの会社で働いていたら分からなかった、転職してから初めて自分の価値が計れたなどの自己啓発系とも違う。
自分だけでは分からなかった、それぞれの違う視点や意見があるほど、アイデアや対策が生まれるんだ、などの自己成長系とも違う。
小さな解釈の心理と方法、例えば「胸に聞いてみる」や、「輪廻転生」、「自己責任論」、「貢献論」、「殺身成仁に類するモノ」、「原因追求論」などが志理解釈学第1層に当てはまる事です。
知的好奇心なども高い方がアンテナは張れます、解釈とは学校では習わない事なのです、むしろ学校に通えば通うほど理解と解釈の距離は近くなり、解釈を見るという真理から遠くなっていきます。
なぜなら、理解と解釈は違いますね?
人間の思考や解釈は点に過ぎず、散らばれば散らばるほどに解釈においての思考距離が近くなります。
簡単に言えば、全体が見えている、かのように見えるという事です。
お金は儲けられます、学力はつけられます、運動能力は高められます、技術は身に着けられます、人は見つけられます、これらは人間なら到達出来ている範疇です、すでに答えがあるから解釈と理解の距離が近く、成功した人の真似をして成功するといった感じでその先にある自分が求める到達点が見えます(なれるかどうかは別として)。
しかし、法学、神学、解釈学においては、学びが乏しい。
なのでクローンや、機械化、機械融合化、ナノ融合、DNA組み換えなどのテクノロジーばかりに時間を費やしています。
解釈の虚空を知り、人生を歩んでいる人間は僅かでしょう、私達が理解している人間らしい生活をしていないはずなので、そもそも都市には住んでいないと思います。
私はインドのバロッドという場所で暮らしている一人の男性を知っています。
当時は90代後半だった彼は日本語を流暢に話し、英語も話してましたし、隣の中国人とも中国語で話してましたから、いわゆるマルチリンガルです、その時に旧約聖書を貰い3年近くかけて読んだのも良い思い出です。
話が長くなるので省略しますが、その男性は経済的自由を達成しながらもなぜかホームレス場に来て私に話かけてきました。
話の結論はこうです、「私は盲目だった、経済圏だけの成功は理解の範疇でしかなかった、人間には構築出来ないものが多くあり、それを知ったときに絶望した、解釈の虚空は人間が作り上げたものだった、」などと、よくわからない事を言っていました。
当時の私は哲学的学問や方法論などを本でけっこう調べましたが、時間だけ過ぎていき、最終的にスーダンの大学から「解釈の書契」というものがあるという事だけでした。
一旦ここまでとします。